昭和47年1月19日 朝の御理解        (末永信太郎)

御理解第18節
 此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。



 お道の信心を頂かせてもらう者の、いわば最高焦点とでも申しましょうか。ね。ここんところを目指させて頂くということ。そんなに、別に生神様にならんでも良い、というのではなくてね。やはり、生神様を目指すのが金光様の御信心です。生神様というて、べつにその、白い髭をこう生やした、ね、まあ、雲か霞か(を立てて?)おらえるといったようなのじゃない。どこまでも、生々しい。ね。
 それこそ、突つけば血が飛び出るような、ね、触ればいよいよ温かさを感じる、そういう神様だからこそ、生神様。ね。その生神様、その生神とは、いわゆる教祖のことを生神金光大神とこう申し上げるが。ね。此方のことを生神、生神と言うが、みんなもそのようなおかげが受けられる、と。此方がおかげの受けはじめであって、みんなもその通りのおかげが受けられる、と。
 というところにです、お道の信心の、まあ、言うなら素晴らしさ、と。ね。いわゆる、無学の百姓とこう仰る。ね。なるほど、身は無学の百姓でお在りになりながら、天地金乃神と同根というところまでも、天地のご信用を受けられた。しかも、そういう自分の歩かれた御信心の道すがらというものを教えておられる。
 それは、決して難しいことではない、もう平易なこと。百姓をしながら、商人は商売をさせて頂きながら、それぞれの持ち場立場、その家業の中に生神の道をひたすら歩かせて頂こうとの願いのもとに、信心のけいこをさせて頂くのである。しかも、みんな、その通りにおかげが受けられると、こう仰せられる。此方はおかげの受けはじめである、と。ね。
 沢山な宗教が生まれました。その宗祖教祖と言われる人達は、もうそれこそ、これは特別な方達。とても、私ども凡夫が足元にも寄れないほどしの偉い方達ばっかりですね、どの宗教を見ましてもそうです。お釈迦においても然り、キリスト様においても然り。ね。そこに、何とはなしに曰く因縁というか、もう、でなからなければ出けないと、いわゆる、天上天下唯我独尊的なです、もう、真似の出けない。だから、真似の出けないことの行うたことを、真似の出けないことの教えたことが、とても人間凡夫で出けれるはずもない。そこに、金光教の信心の私は素晴らしさがあると思うですね。
 私どもが、本当に生神の境地というか、生神の道を本気で辿らせて頂いたら、生神になれる、と。で、それはね、本当のことを言うたら、私どもが一生ばたぐろうても、とてもとても出来ることじゃなかろうけれどもね、それに近づいて行けれるということなんですよ。
 いわゆる、人間教祖として、私どもは頂いておる。ね。しかも、んなら、火の中に座ってござったとか、ね、立ち通しの修行をしなさったとか、そういうものではない。いわゆる、ただただ、実意丁寧神信心をなさっただけである。ね。その真というか、ね、いわゆる、天地を貫くほどしの生きられ方をなさった。
 それは、決して難しいことではない。昨夜のお月次祭に私どもの3番目の息子、幹三郎です。今年、満17歳でしょうか。去年、あのようなない命のところを助けて頂いて、ね、それから学校を断念する。そして、もう本気でこれからの障害を神様に喜んで頂くような御用をさせて頂くためには、お道の教師になることが一番だと、まあ、子供ながらも気付かせて頂いて、お道の教師になることのための、まあ、信心修行を、まあ、一生懸命させて頂いておる。もう、一年何ヶ月になりますが、まあ、私と一緒に3時過ぎに起きて、ね、私と一緒に、まあ、親先生のお供をして控えまでやって参ります。
 そして三十分間、四時の御祈念をさせて頂くまでを、私の前に座ってジーッといわば神習をしておる、神習っておる。私も一言も言わん、彼も一言も言わん。ただ、じっとその三十分。昨日、私は高橋さんと話したんですけれども、本当にこの三十分間という時間が私の一日の内で一番有り難い、楽しい、尊い、また時間なんだ、と。
 けれども、心の中に、四時からの御祈念じゃけん、5分前行ったっちゃ四時の御祈念に間に合うからというような、言うなら三十分間無駄なようであるけれども、ジッと神様を思うというか、自分の心を深く見つめるというか、もう、何とも言えん有り難い、有り難い、あの三十分間というのは、もう、私にとっては一番有り難いんだ、と。それが、なら幹三郎が分かるか分からないかは知らないけれども、やはりそれを一生懸命、黙っていわば神習をしておる。2~3日前、夜の御祈念の当番でしたから、当番の者が御祈念をさせてもらい、そして、後の教話も説かせて頂く。夜の御祈念だけはそうなんなんです。
 それに、僕は後で後悔をするということが嫌いだ、ということを言っておりますですね。だから、後悔のない一日であるために、一生懸命勤めると、こう言っておる。今日も御祈念させて頂いて、まあ、一生懸命御祈念をさせて頂いて、大払いをあげさせて頂いておったら、大払いの半ばから、ね、感動が湧いて、何か知らんけれども感動が湧いて、ね、大変有り難かったということを話してるんです。
 私、それを聞きながらね、一生懸命ということは何かこう、大変難しいことのようですけれども、いわゆる実意丁寧をそのまま一生懸命に現すということ。ね、例えばこれは、なら形の上でもそうです。せっかく皆さんが朝の御祈念にお参りをされる。一生懸命、大払いをあげられる。もう、腹の底から、もう一生懸命に大払いをあげておる。あっち向いたり、こっち見たりしてから大払いあげよる人がある、こっから見よるとね。そげなことでは、私は御祈念の値打ちはないと思う。
 もう、一心不乱、一生懸命。そして、その一生懸命のあとには必ず喜びが伴うものだということなんです。ですから、んなら、お参りを一生懸命させて頂いて、はあ、お参りさせて頂いてよかったと、例えばその喜びが湧いて来なかったら、一生懸命が欠げておったと悟らなきゃいけんと、私はそん時思いました。ね。
 昨日もお月次祭の前講を、幹三郎が頂いておりました。もう、お話は兄弟一番に下手です。もう、本当に本当にばっかり連発しましてね、もう聞きよって、その、本当にお話が上手とは思えませんけれども、自分の信心のギリギリのものを話しておる。私はここに座っておって、思わず涙がこぼれた。
 有り難いなあ、と。まあだ、このくらいな若さで、言うなら生神への道をひたすら精進しておるということ。しかも、それが純粋に精進しておるということが、もう、何と有り難いことだろうかと、こう。彼の昨日のお話の中に、先日ご理解の中に、人間は裏表があってはならない、と。信心させて頂くなら、口で言うておることと、心に思うておることが一致しなければ駄目。口には向こうを言うとって、心は反対なことのようなこっじゃつまらん、と。
 いや、そういう生き方では馬鹿らしいということが分かる信心を、と親先生が仰ったが、ね、本当にそうだということを言ってます。ね。信心させて頂いてです、ね、口で真を語りつつ、心に真のなきこと、とこう仰るが。ね。裏表のない、表もなければ裏もない、そういう生き方をしなければ馬鹿らしいとまで神を信じ、神が分かるということが素晴らしいですね。そういう信心に精進させて頂いておる。
 今日も僕は御結界に奉仕をさせて頂きながらと、話しております。御結界に奉仕させて頂きながら、ジーッと、んなら、僕の信心は果たして裏表がないだろうか。ね。本当に実意丁寧を貫いておるであろうか。ね。そのことを御結界に奉仕させて頂きながら、自分の心を深く、まあ、見つめさせて頂いたら、ね、僕はそれが出けておるということに気が付いたという意味のことを言ってます。
 それは、お掃除をさせて頂くでも、どこへ、例えば親教会参拝を毎日、あの人が私の代参を致してくれます。御結界の奉仕が終わってから、そしてその、出るのですから、もう、お参りをさせて頂く時も、今から参って来ますというのじゃなくてから、お参りをさせて頂くにも(一進?)ここに座ってお初穂の鞄をここに置きながら、御祈念をしてから、今から親教会に参拝のおかげを頂く。
 いわゆるその、親教会にお参りをする道すがらも一生懸命で在らねばならんといったような祈りをしておるのではなかろうかと、私は昨日思うた。ね。ただ、参ると言うけれども、その参る道すがらとても、やはり一生懸命の思いを、ということではなかろうか。そしてそこからです、不思議な不思議な働きが自分の心の上に起きておるということが、最近、気が付いたという意味のことを言ってます。
 僕はもう、生まれつき人に会うことが嫌いである。人と相対してお話をすることが、いよいよ嫌いである。そういう性格であった。ところがこの頃はね、もう人に会うこと、そして、自分の心持ちを聞いてもらうことが非常に楽しゅうなって来たと言っております。たまには、僕が冗談でも言えれるようになったということは、大変なおかげだという話を昨日してました。ね。
 私はね、金光様の御信心はね、親先生がこう仰った。ね。例えば、裏表のある生活をしては馬鹿らしかばいて。ね。それ、例えば、ね、裏表のあるぐらいなことじゃない。それこそ、ここでは言うなら、もっともな有り難いことを言いながら、家に帰ったは、それとは反対のことを言うたり思うたりしておるというところにです、それに恥ずかしいとも思わなければ、ね、それで損するとも分からないということは、本当に惜しいことである。ね。そこは人間のことでございますから、ね、もちろん、どこにお粗末があるやら、ご無礼があるやら分かりません。
 私は今朝から、そういう信心をね、これは私自身も幹三郎に見習わせて頂かにゃいけんなと改めてね、昨日、お月次祭の後に、皆さんにお説教のおかげを頂いた後にです、そのことを頻りに考えさせて頂いた。ね。いわゆる、負うた子に教えられると言うが、これは私自身の信心も、これは本気で、ああいう、幹三郎が昨日、前講の時にお話をしておるようなところを取り組まなければいけないなということを、私は思い思い休ませて頂いた。そしたら、今朝からもう、恥ずかしい恥ずかしいお夢を頂いた。
 はあ、本当にこれは、もういっちょやり直しだなと思わせて頂いた。というのはね、その何と言うでしょうか。サーカスですね、サーカスの舞台小屋といったようなのが、こうあるんです。で、そこで空中ブランコと言うですかね。それこそ手に汗握るような様々な縁起をしておるんです、誰かが。それを沢山の人がね、それこそ手に汗を握る思いで見て、そして、それが出来ると、ああー!!と(   )拍手を送っておるというところでした。よくよく、そのサーカスの空中ブランコをやっておるその人を見たら、何と私の姿であった。もう、目が覚めてね、私は本当に脇の下から汗の出る思いが致しました。
 ははあ、私の信心な、こういう信心。まるっきり、ショーのようなもの。言うなら人見せのような信心だなということなんです。なるほど、ここでの、私の取り次がせて頂くその、皆さんのおかげの現れ方がやっぱりそうです。ね。親先生はあんなに言うて頂くが、大丈夫じゃろうかと思うて、いつもハラハラしよるでしょうが皆さん。ね、こと問題という時に御取次を頂く、はい、とまあ、親先生が言うて頂いたらから、まあ、安心は出けるけれども、やはりハラハラしておる。
 さあ、今日は何時何分までに何々の手形が、とこうやってお願いをする。はい、先生が言うて下さったから、まあ、安心はしとるけれども、言うならば本当の安心はしとらん。もう、それこそハラハラして。病気でもそうだ。もう、一事が万事がそうである。合楽で頂いておるおかげというのは、ちょうど、手に汗を握るほどしのおかげである。だから、それがおかげ頂いた時には、もう、神様の働きのね、もう一分一厘間違いのないことよ、と言うて拍手喝采をする。
 それが、私は合楽の信心だと、私は改めて分からせて頂いた。ね。常日頃にです、純粋に私どもが裏もなければ表もない。口に真を語りつつ、心に真のなきことといったようなことをです、本当に反省しながら、ね、日常生活の中に、ね、ただただ、教祖の御教えに忠実にそれを行じて行こうとする、そういう姿勢を持って、おかげを頂いて行く。そして、私は思うた。ね。
 なるほど、おかげを受けるということは有り難いこと。普通、人間の知恵で言うなら、もう、とても出来ませんということがです、可能になって行くと言うのですよね、言うならば。ね。言うなら、例えば難儀な問題を、御取次を願わせて頂いておかげを、まあ、頂くための一生懸命ではあるけれどもです、もう親先生はああ言うて頂くけれども、おかげ、どうなるだろうか、と。まあ、言うなら半信半疑。ね。
 言うなら、心には手に汗握る、ハラハラする思いでおるということがです、そういう思いしか与え得ないというところに、これは私の信心が一段と、もっともっと本当なものにならなければならない。まあ、生神への道の厳しいことよと思いますね。
 私は今日、それを本当に実感してるんです。例えば、なるほど、昨日あたりから少しご理解が柔らかになったなあ、と思いよった。一昨日辺りまでの、あの毎日のご理解ちゅったら、もう本当に厳しい厳しいね、私はこれだけのことを言うて皆さんに聞いてもらっておるのに、教えておるのに、どうして分からんだろうかと、たこを叩くようにして聞いて頂いたですね、一昨日頃までは。
 ところが、昨日辺りはそうじゃなかったですね。今日になったら、いよいよ、これは分からせきらんというのは、いよいよ私が悪いのだということに、言うなら気が付いておるということなんです。あなた方が分からんのじゃない、分からせきらんのだ、分からせ得ないのだ。神様からこれだけの、言うなら神の知恵を持ってこれほどしの素晴らしいお話を、それこそ、しかも噛んで含めるように頂きながら、どうしてそこが分からんのかと歯痒い思いをしておったのがです、ね、昨日はまあ、仕方がないというようなことになって、今日はしかたがないの段じゃない、私自身が事実分からせきらないのだ、と。
 分からんのが悪いのじゃない、分からせきらんのがおかしいんだ、と。なぜ、分からせきらんのか。それは、私の信心がショーのようなものだから、人見せのような信心だから。なるほど、おかげを頂けば拍手喝采といったような、けれども、やはりいつも、冷や冷やする思いをさせておるというようなおかげしか、御取次が出けていないという事実がね、物語っておるんだ。
 今日からはそこんところに本気で取り組ませて頂いて。ね。親先生の御取次を頂いたんだ、ね、もう、右になろうが左になろうが、例えて言うならば、もう瀕死の病人がです、ね、最後に、ね、どこどこの何という有名な先生がおられるげなが、その先生にもう一遍、手を握ってもらいたい、見合うて頂きたいと例えば願いをする。そして、もう、この先生に手を握って死ぬのなら、もう本望だと言わせ、思わせれる私にならなければいけないなということを、今日は感じております。ね。
 それには私の信心がです、ね、まちっと、いや、本当なもの。いわゆる、本気で生神を目指すところの信心が一段と成されなければいけないなということを、今日は実感させて頂いて、そのことを、まあ、お詫びをさせて頂いたり、願わせて頂いておりましたら、もう、それこそ大きな、まあ、岩ですよね。岩の根方に黄色い黄菊がいっぱい根元にこう、咲いておる御神眼を頂きました。
 ははあ、ね。それこそ、動かざること山のごとしとか、巌のごとしと、こう申しましょう。私の信心は、その巌のような信心ではなくて、ね、その根元に咲いておる小菊のような信心だなということ。ね。ここで菊栄会が誕生致します時に、合楽の信心のシンボルだ、と。菊の花、心に、菊とは喜び久しいとか書くとね、やはり菊とこう言う。だから、自分の心の中に、そういう喜びを目指してのというのが、菊栄会の菊が栄えるという会が誕生した時に頂いたご理解でしたが。ね。
 自分の心の中に、ね、信心の喜びというか、それが、んなら、今まで私の何十年間の信心の中に、その喜びがないか、と。そういう喜びなら、もう本当に誰よりも私は頂き続けておるような感じがするんです。菊の花的な、その信心なら。ところが、その巌のようなというものに欠げておるということに、私は改めて、今日は気付かせて頂いた。ね。
 そのための、そんならば信心とはです、ね、幹三郎が昨日お話をしておったような、本当に自分というものを確かめてみて、ははあ、自分はそのことに対して一生懸命で出けておると思えれるほどしの信心ですね、言うならば。ね、お掃除をさせて頂くでも、親教会に参拝させて頂くでも、いやその道中、道すがらのことですらが一生懸命で、その、おすがり、一生懸命で走るという意味じゃないですよね。息を切るというほどしのことじゃない、一生懸命というのは。ね。
 一生懸命とは、いつでしたかねこの頃、文男先生が言ってましたように、一生懸命とは、ね、一つのところに命をかけるということだと言う。ね。だから、んなら、お参りの時だけで、お参りの時、ご神前だけではない、お参りのその道中そのものも、それなのであるということ。ね。
 いわゆる、嘘のない生活。教えを本気で忠実に、ね、それでいて、例えば反省、ね、自分というものをふり返らせて頂いて、お詫びをさせてもらうところはお詫びをさせて頂かなきゃならん、改まらねばならんところは改めさせて頂いて、いよいよ、ね、その後に喜びが湧くほどしの一生懸命を焦点としなければならない。たしかに一生懸命に、神様に向かう心が一生懸命である。そのお返しのように、自分の心の中に喜びが頂けれるのが、神様へ向かう言うならば答えでなからなければならん。ね。
 喜びどころか、ね、やはり、不安である心配であるとするなら、まだまだ、自分の一生懸命が欠げておると悟らせて頂いて、神様へ向かうて行かなきゃなりません。ね。言うならば、私の信心を、ね、ちょうどサーカスのショーのような、それこそ人に、手に汗握らせるほどしの、まあ、演技というかね、技術だけは体得したという感じがする。ね。けれどもやはり、それは危険である。一つ間違うたら命に関わる。ね。
 ですから、私はね、その巌のような信心というね。それを、例えば答えに出て来るなら、どういうことかと言うとです、いよいよ、私は神様から信じられる私ということだけではなくて、ね、信者氏子からも、もう絶対として皆さんから信じられる私にならなければならないということなの。ね。
 信じて下さい、信じて下さいと言うて、信じられるもんじゃないです。ね。親先生はああ仰るけれどもと、まだ、けれどもしか付かんのだ。ね。信じんのが悪いのじゃない、信じられない方が悪いのだ。ね。それこそ、あの人に、あの先生に手を握ってもらって死ぬのなら本望だと、言うなら、もう生きても死んでも、生死をそこにかける、生死を任せられるほどしの取次者、先生になりたいと私は思うておる。今日はそれを改めて思うておる。親先生の御取次を頂いたから、ね、必ず右になるとか左になるというものじゃなくて、もう、右左はもう親先生にお任せして、ということ。そこには、皆さんも不安のない御取次を願うことが出けるわけなのです。ね。そこまでに、例えば、信じられる私にならせて頂かなければならない。
 いよいよ、ね、生神への道を、いよいよひたすら励ましてもらう修行をさせてもらわなければならない、という風に今日は感じるのでございます。恥ずかしいことですけれども、私は今朝から、ね、お夢の中に、いわゆる、御神夢でしょう。本当に私の信心は、本当に負うた子に教えられる。幹三郎の夕べ話したことを繰り返し、まあ、いわゆる言外の言とでも申しましょうか。彼がまだ言いたいけれども、表現が出けないところまで、こう思うてみたんです。ね。
 そして、なるほど、こういう生き方にならなければ、しかも純粋に、そういう受け止め方が出けなければいけないな、と。本当に、そうありたい、あらせて頂きたいというような思いを持って休ませて頂いたら、今、そういうお夢である。まるっきり、私の信心はショーのようなものだ。言うならば、人見せのようなものだ。ね。そして、んなら、参って来る信者氏子にハラハラさせるような信心だ。
 ね、終わったら、はあ、とため息が出るように、合楽の信心は素晴らしか、有り難かち言いやおるけれどもね、小屋を出掛けには、はあ、とても今日は素晴らしかったと言うては行きよるけれども、まあ、見とる間はハラハラさせとるというような信心である。
 本当に生神への道は厳しい、そう思いました、私今朝から。それこそ、菊の花のようないわば信心も去ることながら、この大きな巌のような信心。親先生の御取次を頂いて、そして生きろうが死のうが、もう、それは本望だと皆さんが思うて頂けるほどしの取次者としての修行を、これからさせてもらわなければならんなと思わせて頂いております。
 これは、皆さんにじゃない、私自身に聞かせよる御理解だったんですけれどね。いよいよ、猛反省、いよいよ自分の本心のいわゆるところ、手元のところを見極めさせて頂いて、皆さんが、ね、言うならばゆとりのある、安心してもらえれるだけの信心を頂かなきゃならん。なるほど信心とは、神様に信じられるということなのですけれども、これをやはり、人にもそこまでです、もう、この先生にお願いをしてからならばと思われるほどしに、信じられる私にならせて頂いた時に、合楽の信奉者全部が、おそらく、ね、合楽の親先生の御取次を頂いて、開式が出けるでしょうね。
 皆さんの上にも大変な、言うならば、ね、言うならば不安のないというか。ね。本当の意味においての安心の生活。親先生の御取次を日々頂いておるんだから。親先生の祈りの圏内の中にあるのだから。その圏内の中でこのようなことが起きておるのであるから、これもおかげであろうと皆さんが感じ取って頂けれるところまで、私の信心を高めて行かなければいけない。いや、高めると言うよりも、深めて行かなければいけないなというなことを、今日は感じました。どうぞ。